ふくしまは、今日もそれなりに長閑です

福島県のどこかに住んでいる、平凡な主婦の福島への愛にあふれたブログです

うちげの震災 ~原発から60km地点であっぱとっぱ~③

見にきてくれてありがとうございます。

もし良かったら、①から読んでもらえたら凄く嬉しいです。

fukunodo.hatenablog.com

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「うちげ」は「私んち」という意味です。

「あっぱとっぱ」は「慌てふためく」という意味です。

 

父で夫で息子で人で

 

愛しい我が家

 

ジイちゃん(舅)の死期が静かに迫っていた。

だけどすぐ近くにいても、あんまり実感が無かったの。

父ちゃん(旦那)も、親父は結構長く生きられるんじゃないかって楽観的だったし、私もそう思ってた。

 

うちのジイちゃん(舅)は、震災の1年ぐらい前にステージ3のガンを宣告されて、手術をしても良くならず、抗がん剤でも良くならず、放射線治療でも良くならず、それでも負けないで治すぞって頑張ってた。

そんな状態の時に、あの大地震がきた。

ジイちゃん(舅)はさ、私達にはニコニコした顔しか見せなかったけど、本当は心も体も相当辛かったんだって。

バアちゃん(姑)との新婚当時、張り切って建てた家が、自分の人生とずっと一緒に生きてきた家が、ひび割れて傾いて、放射能のせいで住めなくなるかもしれないっていう目の前の現実に打ちのめされてたんだって。

新しかった家も、子供達の成長と共にだんだんと古くなっていって、子供達が大人になって巣立って、あちこち直して、今度は元気な孫がやってきて家中ドタバタ走って遊んで、そんな思い入れのある家が壊れていく。

自分の体も、もうダメだとか思ってたのかな。

私達には何も言わなかったんだよ。

何も。

 

壁にヒビが入った状態の家で葬式なんて、今までずっと頑張って働いてきたジイちゃん(舅)が可哀想だから、キレイな家から送り出したいから、早く家を直さなくちゃってバアちゃん(姑)が泣きながら言っててね。

私は本当におんつぁで、気の利いたことが何も言えなくて、「大丈夫ですよ」とか「まだまだ先の話ですよ」とかしか言えなかった。

だって、本当に元気そうに見えたんだもん。

 

でも、ジイちゃん(舅)はあの時にはもう、ただ座ってるのも辛い状態だったんだって。

でも、息子家族の前では弱ってる姿は絶対に見せたくなくて、気丈に振舞ってたんだって。

だから、早く自分の家を片付けて戻りたかったみたい。

 

ダメだ、このあたりは思い出すと少しウルっとしちゃうわ。

 

選択肢

 

あなたはあの時、仕事はどうした?

休んだ?辞めた?行った?

 

最初に爆発したのは土曜日だっけ。

土日が休みの人も仕事の人も、色んな職種の人がいるけどさ。

あの時、とりあえずみんな出勤した?

 

「会社が休んでいいって言わないから」

「休んだらクビになるから」

 

こんなことを言いながら仕事に行く人も多かったよね。

でも、福島に住めなくなるかもしれない、外に出て放射能を浴びて命がどうなるか分からない、そんな状況の中で仕事に行った1番の理由って、やっぱり「責任感」だと思う。

休むわけにはいかない、自分が休んだら迷惑がかかる、止めるわけにはいかない仕事だから、色んな責任を背負ってみんな仕事に行ったよね。

 

どんな時でも仕事に行く真面目な日本人とか色々言われてたけど、まぁ真面目だよね。

死の街になるとか、福島から逃げない人は頭おかしいとか言われながらも、放射能が降り注ぐ中、みんな仕事に行ったんだよ。

私達が暮らしてた街は、逃げるも残るも自分で考えて決めてねって場所だった。

どうすればいいのか、どの選択肢が正解なのか分からなかった。

 

嘘か本当か分からない、色んな情報が飛び交ってたよね。

テレビを見ると2~30km圏外は大丈夫って言ってるし、ネットを見ると福島にはもう人は住めないって書いてあるし、何を信じればいいのか分からなかった。

自分達で考えて決めるしかなかった。

「無知は罪」って言葉が頭に浮かんだの。

無知が恐怖を生むんだ。

よく分からないから怖いんだ。

でも、それまで何も知ろうとしてこなかったのに、付け焼刃で知識を得ようとしたって、嘘と誠を見抜く目なんて私は持ってなかったよ。

 

13日だったかな、幼稚園から電話がきて、いつまでかは分からないけど、しばらく休園することになったので荷物を取りにきて下さい、と言われた。

当然だけど、誰にもチビ太郎のお世話をお願いできる状況じゃないので、仕事を休むことにした。

私は、あるサービスを提供する仕事に従事しててね、今回のコロナでもそうだけど、緊急時には必要ないって判断されがちな業種なんだ。

この時もお客さんは来なくなった。

店長に電話したら、私と同じように一人で留守番ができない年齢の子供がいる女性スタッフは、みんな休むことになったと言われた。

来れるようになったら来てねーって明るく言われて、ひたすら謝って電話を切った。

 

仲の良い同僚に電話したら、子供と一緒に関東に行くから仕事は辞めるかもしれない、とのことだった。

もう会えないかもしれないけど、お互い元気で子供を守ろうねって励ましあった。

 

みんな不安だった。

不安だったよね。

 

食べて、眠って、生きる

 

あっという間にお店から品物が消えた。

原発が爆発する前は、だいたい1週間ぐらいでお店の品揃えは回復するかなって隣の奥さんと話してたのに。

たった1日で、遠い昔にした会話のような感覚になったよ。

いつものベニマルに、元通りの光景が戻ることなんて無いんじゃないかって思った。

 

私は本当にだらしなくてさ、食材も消耗品も無くならないと買いに行かないタイプでね、こういう時に、食べ物とかトイレットペーパーとか洗剤なんかが無いって焦っちゃうの。

今は、ある程度はストックするようになったけどね。

対照的にバアちゃん(姑)は買いだめするタイプだったから、5人家族がしばらく食べていけるだけの食料はあったの。

本当にありがたかったなぁ。

バアちゃん(姑)には足を向けて寝られないよ。

 

みんなでテレビを見てたら、福島に行くことを物流会社が拒否しているってニュースが流れた。

なんとかしてモノを運ぶから待っててくれって、誰か政治家が言ってた。

それは、とてもありがたいんだけれども。

いつまで?

いつまで待ってればいい?

そもそも福島にいてもいいの?

そのまま住んでても、ただちに影響はないっていうけどさ、いずれは出てくるってこと?

こんなことを言いながらテレビを見てたけど、家族の誰もハッキリした結論を言い出さないまま、なんとなく時間が過ぎていったの。

ハッキリさせるのが怖いっていうのもあったのかな。

 

ハッキリしないまま13日はみんなで協力して2件の家を片付けて、余震を怖がるチビ太郎をなだめて、ジイちゃん(舅)の体を気遣った。

あんまりにも余震が多くて、なんか常に体が揺れてるような感覚があったなぁ。

 

混乱の中でも、ジイちゃん(舅)とチビ太郎にはちゃんと栄養のあるものを食べさせないといけないよねって話し合って、少ない食材でも肉と野菜は食卓に並べた。

先のことが不安で仕方なくても、夜はみんなで早めに床についた。

料理ができる環境があって、お風呂に入れて、ベッドで眠れる。

それまで当たり前だと思ってた環境に感謝したよ。

なんて恵まれてるんだろう。

避難所で生活することを余儀なくされている人達のニュースを見て、言葉で言い表せない感情であふれた。

なんて無常なんだろうと思った。

大切な家族や家を失った人もきっといるだろう。

どうかせめて、あの人達がご飯を沢山食べられますように、そう願った。

夜は熟睡できないかもしれないけれど、せめてご飯は食べられますように。

辛くても、食べて命を繋いでほしい。

 

私達も、しっかり食べてしっかり眠る、訳が分からない状況の中でも、これは守ろうと思ってた。

じゃないと、いざという時に心も体も動けないから。

 

そして14日の朝、ジイちゃん(舅)とバアちゃん(姑)は自分たちの家に帰った。

 

その日、福島原発の3号機が爆発した。

 

止まらない現実

 

どうしよう、どうすればいい?

テレビとネットは相変わらず正反対のことを言ってる。

 

ーただちに影響はありませんー

ー福島は人が住める所じゃなくなったー

ー慌てず落ち着いて、洗濯物はしばらく外に干すのは控えて下さいー

ー東日本から早く逃げろ!-

ー換気扇を使うのは、しばらく控えた方がいいでしょうー

ー外国人はみんな帰国してるぞ!ー

 

どっちを選ぶにしても、腹をくくるしかない。

福島から出たくはないけど、国から避難しろって言われたら出ていくしかないよね。

 

バアちゃん(姑)に電話をして、いつ避難命令が出てもいいように、荷物をまとめて車に積んでおこうと話をした。

ガソリンスタンドは11日まではそんなに混んでなかったけど、原発事故の後から行列ができた。

私は震災前までは、赤ランプ(言い方古い?)が点いてから3日は乗る派だったのね、あれ結構大丈夫なもんなんだよね。

あの時はたまたま10日にガス欠寸前になったから、ガソリン満タンにしてたの。

だから、見るだけで気力が削がれるスタンドの行列に並ばなくてすんだ。

 

夕方になって父ちゃん(旦那)が帰ってきて、どうするのか話し合った。

やっぱり福島から避難したら会社はクビになるから、国から指示が出るまでは、ここにいるしかないっていう結論になった。

60kmも離れてるし、テレビに出てる専門家は大丈夫だって言ってるし、大丈夫だよねって言いながら。

情報もさ、大丈夫って言ってる人の言葉しか受け入れようとしなくなるんだよね、こうなってくると。

生来楽観的なのも作用して、んーなんか大丈夫なような気がするわぁ、って気持ちになっていった。

逆に、ダメだ福島はもう終わりだ!って言ってる人の言葉しか受け入れなくなった人もいたりしたよね。

 

夫婦で話し合ってここに残ろうって決めた次の日の15日、2号機が爆発した。

  

ニュースを見て楽観的な気持ちも吹っ飛んで、すぐにバアちゃん(姑)に電話して、いつでも逃げられる準備をして下さいって話をした。

そしてチビ太郎に、みんなで少し遠い所へ行く事になるかもしれないって説明したら、子供ながらに何かを察していたみたいですんなり受け入れてくれた。

親戚のおばさんから電話がきて、三春町では40歳以下の人にヨードを配ることになったと聞いた。

 

夕方、父ちゃん(旦那)が帰ってきてまた話し合った。

やっぱり避難指示が出るまでは父ちゃん(旦那)は残るから、あまりにも放射線量が高くなるようなら、皆を連れて新潟に行ってくれって、そうするしかないのかなって話してたの。

そしたらバアちゃん(姑)から電話がきた。

 

感情という邪魔なもの

 

11日からずっと慌ただしいままで、正直みんな疲れてた。

疲れてたんだよ。

本当に。

 

バアちゃん(姑)からの電話は、たとえ国から命令されたとしても、ジイちゃん(舅)と2人でここに残るという内容だった。

ジイちゃん(舅)はもう長くないから、最後は大好きな自分の家で死ぬって決めたって、そしてバアちゃん(姑)は、大好きなジイちゃん(舅)とどこまでも一緒にいるって決めたって。

自分達のことは気にせずに、あんたたちはチビ太郎のことを一番に考えてちょうだい、そう言われた。

バアちゃん(姑)は電話口で泣いていて、私も切なくなって、とりあえず一旦電話を切った。

どうやって2人を説得して一緒に逃げるか、それを父ちゃん(旦那)と相談しようと思ったの。

 

バアちゃん(姑)との会話の内容を父ちゃん(旦那)に伝えて、どうやって2人を説得するか、避難した場合のジイちゃん(舅)の病院をどうするかとか、色々と話そうとしたの。

そしたら父ちゃん(旦那)はしばらく黙って考え込んじゃって、私の話は右から左に流れてるような、そんな表情になってた。

あの時チビ太郎はどうしてたっけ?思い出せないな。

しばらくして、ずっと黙って私の話を聞いていた父ちゃん(旦那)が口を開いた。

 

「俺は親父とおふくろとここに残るから、お前らは好きな所に行け」

 

ん?

ああ、今のハッキリしない状況だと確かに動きづらいよね。

 

「いや私もギリギリまで福島にいようとは思うけどさ、もう本当に逃げなきゃいけないってなった場合にジイちゃん(舅)達をどうやって説得しようか、それを考えないと」

「いや、国から逃げろって言われても、親父たちは逃げないで2人であの家で死ぬって言ってんだべ。だったらその時は、俺も親父達とあの家で一緒に死ぬわ」

 

・・・は??

・・・え??

 

「・・・私とチビ太郎は?」

「お前は強いからどこでも生きていけっぺ。チビ太郎連れて行きたい所に行け」

「・・・父ちゃん(旦那)は?」

「俺は親父とおふくろを見捨てらんねえ。3人で一緒に死ぬ」

「・・・・・・えーとそれって、私とチビ太郎を捨てるっていうこと?」

父ちゃん(旦那)は、一瞬キョトンとした顔をした。

 

「・・・・・・・・・そうだな」

「・・・・・・・・・・・・そう」

 

 

よし!離婚しよう☆

わーい離婚だぁー☆

 

本気でそう思いましたよ。ええ。

心の中で罵りましたよ、ええ。もうメチャクチャに。

 

悲劇のヒーロー気取ってんじゃねえよ、この甘ったれが。

今の時点で全員生きてんじゃねえか、どこのボクちゃんだよこの根性無しが。

自分だけが辛いのか?酔ってんのか?あ?

 

とてもじゃないけど口に出しては言えない内容。

口にすると、ただの罵り合いになって話が止まっちゃうよね。

心の中でひたすら罵倒してたら、父ちゃん(旦那)が目を赤くしながらまくし立ててきた。

「お前のおふくろさんが親父の立場だったらどうすんだ!うん分かった、じゃあ1人で死んでねってお前はおふくろさんに言うのか!!」

って責めるように言ってきたのね。

ああ、もう根本的な考え方が違うんだわ。そう思った。

「は?引きずってでも連れていくけど?置いていく選択肢も、一緒に死ぬ選択肢も、私の中には無いわ」

またキョトン。

「・・・・・・俺とお前は違う!」

 

そうですね。

そんな考え方の人間になんて、なりたくもないわ。

そう思った。

あの時は本当に頭にきてたの。

怒りが抑えきれなくて涙が出るくらい。

 

その後ね、バアちゃん(姑)と2人で話したんだ。

電話だったかな?直接だったかな?

思い出そうとするとジイちゃん(舅)家の玄関ドアが頭に浮かぶから、私があっちの家に行って話したのかな?

ジイちゃん(舅)に聞かれたくないから、玄関口で。

 

「なんか、父ちゃん(旦那)は親父とおふくろと一緒に死ぬって言ってるんで、父ちゃん(旦那)のことよろしくお願いします。私とチビ太郎のことは捨てるって言われたんで。2人でどっか行けって言われたんで」

多分、めっちゃ早口だったと思う。

バアちゃん(姑)は泣きだして、私の腕をつかんだ。

「ごめんない、ごめんない、私の育て方が悪くてごめんなさい。どうかバカ息子のこと見捨てないでやってちょうだい。私からもあのバカに言うから。ごめんねえ、ごめんねえ」

泣きながら頭を下げるバアちゃん(姑)の頭頂部を見ながら、もの凄い罪悪感と自己嫌悪に襲われた。

 

なにやってんのよ私。

完全に八つ当たりだ。

弱い立場の人に当たり散らしてる。

最低だ。

人を責められる人間じゃない。

 

激しく後悔して、バアちゃん(姑)に何度も謝った。

2人で泣いた。

家に帰って、父ちゃん(旦那)ともう一度話し合った。

 

結局、新潟には行かなかった。

 

なんかね、考えすぎてバカになっちゃった感じ。

いや、もともとバカだけどもさ。

うちげの近所の人達とか親戚の人達では、避難する人がいなかったんだよね。

「いやー大丈夫だべー(笑)」って、みんなそんな感じだった。

そんな人達と話してると、まぁいっかって気になってくるのよ。

私の同僚と、幼稚園の他のクラスの何家族かが自主避難したけど、大多数はここに残る決断を下した。

私達も。

 

この何日かは、全員が精神的に追い詰められてたなぁ。

何年か経って、この一緒に死ぬのどうのの話を父ちゃん(旦那)にしたら覚えてなかったのよ。

「えぇー!?なんで俺そんなこと言ったんだべ?わけ分かんねえな!(笑)」

ってこんな感じですよ奥さん。

やーねえ。

 

父ちゃん(旦那)はあの混乱状態の中で私とチビ太郎の為に仕事に行ってさ、どうしても必要な物の買い物も1人で行って並んで買ってきてくれてた。

きっと心身共に辛かったと思う。

生まれ育った実家も自分が建てた家もひび割れてしまって、そして余命わずかな父親と、寄り添う母親を見て、「息子」に戻ってしまったんだと思う。

私も不安と疲れからくるイライラを、父ちゃん(旦那)にぶつけてた。

ごめんね。

 

感情で物事を決めようとすると、上手くいかないよね。

感情に振り回されるのは嫌だよ。

自分も人も。

 

心と体の疲れは、人と人との軋轢を生むということを知ったよ。

家族でもこうなるのに、他人ならなおさら。

疲れ切った状況の中、たった一つのおにぎりで憎み合うことになった人達もいる。

それは次のお話で。

 

                                    つづく